北斗法龍寺
書籍の紹介

大沼法龍和上が発刊した書籍の紹介

※書籍名をクリックしていただくと、はしがきをご覧になれます。

親ごころ
この書物は、母となるべき方々が、家庭の内外に打ち寄せる荒波乗切り、子供を指導するに必読の書物です。
※1冊にまとめた本と、上下巻に別れた本があります。
思いの儘
真剣に法を聞き、何時しか御恩を喜ぶ身になり、日記帳を改めて法味の栞としたのがこの書です。物に触れ、縁に触れた物を御法に結びつけて慶ぶ信仰の初心の方によい書物です。
※上下巻に分かれています。
入信の道程
信仰が徹底すれば、こうも人生観が変わるものか、順縁、逆縁みな仏法となり、感謝法悦の世界になります。
他力信仰録
話だけで片付けておられるから、法は機に生き、機は法に生きた妙味がないのです。この書物は、宗教のままの生活、俗諦のままの真諦、この世が業苦楽(ごうくらく)にならねば、未来の極楽は絶対に望めないと教えています。
魂のささやき
私の魂の底から噴き上げる絶対不思議の境地を誰に遠慮もなく、容赦もなく、真仮の水際を、切って切って切りまくった大胆な信仰を書いたものです。素直に聞いて、死んで極楽を願うている有難家が読んだら総崩れする書物です。
歓喜の余滴
信後の余滴、人世の最大目的を果たさせて頂いた大満足の妙味が書いてあります。
※上中下巻に分かれています。
歓喜の泉
見る物、聞く物、皆仏法、天地が心の沐浴をさす泉です、広大な仏徳を讃えた書物です。
随想録
機を包んで腫物に触れるような信仰でなく、吾は如来の一人子なりの自覚を以て大胆不敵の信念を発揮したものです。
原稿集
信仰の発露は誰に遠慮もなく、切って切って切りまくり、群蒙を啓き、疑雲を断除して真如の月をあおがしめるのが、この書物である。
光輪
昭和25年東西本願寺後援の布教大会前後の模様、講演、それに対する反撃、願文より宗祖に至る真仮の流れを書く。学者によし、信者によし、初心によし、古狸によし、万人向きの書物です。
どちらが異安心か
浄土真宗が衰滅の一路を驀進しているのが判らないのか、何故自覚しないのだと激しい口調で諫言したので遂に破門されたのだ。読んで御覧なさい、「どちらが異安心か」法龍は満足し切って布教している。
法界
真仮の水際角目を鮮やかに快刀で乱麻を切る著者畢生の快著。
明闇
世の中で何が正しいと言って、因果の道理ほど正しいものはない。慎むべきは各自の身口意の三業である。
信仰に悩める人々へ
導く知識がいないのだから、何年聞いても晴れないで悩んでいるのです。この書物は、法に疑いはなくても、機が晴れて満足出来ていない人が、疑いの親玉ですから是非読まなくてはなりません。
親鸞聖人に聴く
信後の真似をしているけれども、無明業障の重病患者であることをしらないのです。私が心の病気を診察して、聖人に養生法を教えて頂いて健康体になりましょう。
昭和の歎異鈔
昭和の今日の教界を眺めて御覧なさい。聖人の仰せでないどころか、反対の布教を平気で宣説しているではないか。異安心とて破門された大沼が、昭和の歎異鈔を明治百年記念に制作したのですから、真宗の信仰は転覆しますよ。
末代の灯明台
無漏の慧灯を掲げた灯明台、人世が一大展開します。精神的の満足を得て肉体的の活動となる。神通自在、無碍自在の世界になります。
遺訓
因果の道理を知らぬ者ほど度し難い者はいません。早く親の念願、遺訓を熟読して明るい幸福な家庭を持たして頂きましょう。
聖訓
光に向いて感謝して行けば、地位も名誉も財産も苦労せずについて来る。これが仏力不思議とは知らなんだ。これがこの世の極楽浄土、こんな楽しい境界のあることを知らず、鬼を出したり餓鬼をだしたりしたことの愧しさ。
慈訓
一読すればこれは面白い。再読すればその通り、その通り、三読すれば成程なるほど、四読すれば私のことであったのか、五読すれば自然に実行ができる。興味津々、知らずしらずの間に釣り込まれて、涙と共に報謝を誓う身になれます。
教訓
学生時代からメモして置いた感激の話が今教訓の書として発表できるとは予想もしなかった。布教の資料に最適、青年男女の思想の善導、発奮向上に最良の読物、母親が愛読して頂けば幼児指導の指針となる。
宗訓
浄土真宗の定規を離れては浄土真宗ではありません。弥陀の本願に真仮あり、釈尊の三部経に隠顕あり、開山の聖教に真実権仮あり、中興の著書に専雑の教えがあるのに、信前信後を説かなかったら真宗の定規を外れているのではないでしょうか。
方便より真実へ浄土真宗
方便を知らない者は真実に入っていません。真似から真実の世界に入るのです。贋物から本物になるのです。真実に入った人でなければ方便は語れません。
心の転換(まわれみぎ)
信仰の光に向いて感謝の生活をすれば物質の影法師は身に随います。早く心の転換・まわれみぎをしなければ老後に災禍に見舞われますよ。信仰の初心の方に理解し易いです。
広大難思の大慶喜
仏凡一体になっていないから心多歓喜の益を得ていないのです。喜ばなければ参れないか、参れることが決まったのなら喜ばれるのです。死後の往生を求めている人に現在の慶喜のある筈がありません。
六方礼経の講和
不幸や災難が連続して後を絶たないのは、感謝の気持ちが欠けているからです。貴方はご恩の中に埋もれていながら、ご恩を知らないのです。朝な夕な六方に向かって合掌し、念仏しながら礼拝しましょう。幸福は溢れて来ます。
八万の法蔵は聞の一字に摂まる
八万の法蔵は読んで理屈が判っても信仰ではありません。耳に聞いたか腹に聞いたか、合点したか苦抜けしたか、晴れて満足していなかったら救われてはいません。浄土真宗の唯信独達の大法門というのは、久遠劫からの流転の絆を如実の聞の一字で截ち切るからです。
分陀利華
第十八願の機受の信相が抜けている。誰が何処で信受するのか、難中の難の実地の求道がお留守だから自分の信仰ではない。聞即信の一念で仏智が満入した唯信独達の極意の開発がないから浄土真宗ではない。極意を究め一体になったのを分陀利華、白蓮華というのですよ。
宝典
以前に出版されていた聖典に、法話が加えられてあります。A7判。

『南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、不思議の仏智を感謝せずにはいられません。この法龍に、誰に遠慮もなく真仮の分際を言いたい放題言わしめ、書きたい放題書かしめ、八十歳の長命を保たしめ、衣食住の不自由もなく、肉体の苦痛もなく、天下無類の精神的の大満足を得て、感謝法悦の裡に地上を去らして頂きます。 私の訃報に接しられても会葬に来られる必要はありません。仏前に跪いて在りし日を思い浮かべてお念仏しつつお焼香をして下さい。 私はお念仏の中に生き生きとして貴方のお念仏に唱和しています。』

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